1: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)20:50:31 ID:3SJRnakA2

no title


おーぷんで唐突のやる夫スレで学ぶスレです
ふとしたきっかけで知り得た知られざる偉人ですが、
あまりにも>>1が感動したのでまとめてみました

まったりやってくんでほそぼそ見てやってください




http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1398772231/
2: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)20:52:02 ID:3SJRnakA2

no title

岩手県の旧沢内村(現・西和賀町)の沢内病院の敷地内には、
とある男の姿をかたどった胸像がある

冬には三メートルを超える積雪がある沢内村にあって、
折れぬ意志の強さを伺わせる表情をした、
壮年の男の胸像である
そしてその像の台座には『顕彰』の文字とともに、
以下の文章が刻まれている


3: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)20:52:19 ID:3SJRnakA2

no title


『沢内村の自然は美しい、しかし冬季は激しい豪雪のため
 原始社会に還り、交通はもとより産業も文化も麻痺状態に入り、
 しかも生命を維持する最低の医療手段さえ失う生活を余儀なくされた。

 昭和32年 深澤晟雄氏は村長に就任するや、
 理想高く正義感の強い氏は、この自然の猛威を克服することを
 悲願として奔走、
 ついに村と県都盛岡までの冬季交通を確保し、
 特に医療行政において、老齢者、乳児に対する国保の十割給付を断行、
 村民の平均寿命の延長、乳児死亡率ゼロの金字塔を打ち樹てたことは、
 村史に銘記すべき不滅の業績である。

 六千村民、氏の輝かしい偉業を受け継ぎ、さらに本村の発展と飛躍を期し 
 「村民の道標」として、
 ここに氏の胸像を建立し永く記念するものである。』


4: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)20:53:34 ID:3SJRnakA2

no title

そう、ここに顕彰されている男こそ、岩手県は沢内村(現・西和賀村)の
元村長であり、
1962年、日本の市町村で初めての乳児死亡率ゼロを達成し、
「生命村長」「赤ちゃん村長」と称賛された、
深沢晟雄(1905年 - 1965年)その人である

彼は豪雪、貧困、多病多死の三重苦に苦しめられた
沢内村の過酷な環境を打ち破り、貧乏寒村であった沢内村を
全国で最も医療が充実した自治体に育て上げた、
日本の地方社会保障施策史にその名を残す偉人である


5: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)20:54:02 ID:3SJRnakA2

no title

現在でこそ全国的に当たり前になった医療、社会保障というものが、
いかに尊いものであり、またその発展や充実には、
具体的にどのような先人たちの思いや苦労が存在したのか

我が国の社会、医療や保険というものの土台が揺らいできている
今だからこそ、
医療行政のあり方を深沢晟雄の熾烈な生涯から
もう一度考えてみるのもいいかもしれない……


6: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)20:54:26 ID:3SJRnakA2



no title

深沢晟雄は明治38年(1905年)12月11日、日露戦争真っ只中の年、
岩手県沢内村の弱小地主・深沢家に一人っ子として生を享けた。


7: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)20:54:50 ID:3SJRnakA2

no title


幼い頃の深沢は人一倍の聡明さを持ち、性格も明るく元気であったが、
しかし反面、決して乱暴な言動をすることはなく、
心根は人一倍優しかったという

成績は群を抜いて優秀であったが、
何故か例外的に音楽と体育だけが苦手だった

特に音楽は大の苦手で、後年、人に求められて歌う時は
学校の校歌を歌う始末であった


8: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)20:55:35 ID:3SJRnakA2

no title

深沢の天性のものとも思える聡明さ、心優しさを誰よりも知っていた家族は、
将来、晟雄が医者になり、
無医村である沢内村に戻ってきてくれることをひそかに望んでいた

その両親の期待もあり、深沢は仙台第二高等学校を経て、
東北帝国大学(現在の東北大学)に進学した


9: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)20:56:13 ID:3SJRnakA2

しかし……

no title


深沢は東北帝国大学の医学部に早くに愛想を尽かし、
両親には黙って法文学科に移籍、
1931年(昭和6年)、そのまま卒業してしまう

東北帝国大学を卒業した深沢は、
当時中国が日本の植民地であったこともあり、
上海銀行に就職する


10: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)20:56:52 ID:3SJRnakA2

no title

だが、折しも満州事変勃発直前に就職したもんだから大変、
やがて上海にも戦火が及びそうになると、
深沢は上海銀行を去り、台湾総督府に転職、
そして再び転職し、満州拓殖公社に籍を置いた

この時期、深沢は最初の伴侶であるキエ夫人を病で亡くしたが、
やがてミキ夫人と再婚する


11: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)20:57:25 ID:3SJRnakA2

しかし……


no title

『五族協和』だのという白々しいスローガンを掲げるだけで
何もせぬ公社の社風に愛想をつかした深沢は、
満州拓殖公社を去り、
最終的に山東半島の炭鉱の経営に参画する。

そんなとき……。


12: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)20:57:29 ID:zdp7Cxw4H

何が始まるのですか?


13: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)20:57:49 ID:3SJRnakA2

no title


14: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)20:58:33 ID:3SJRnakA2

no title

炭鉱の経営に携わっていた時、日本は戦争に敗北、
連合国により各植民地は没収・解放されることとなる

だが深沢はすぐには中国を去らず、
最後のケジメとして炭鉱経営の中国側への引き継ぎ
作業に当たった

しかしやんぬるかな、深沢はその引き継ぎ作業最中に逮捕され、
人民裁判へ掛けられた

今も昔も徴発者の強制労働が当たり前の炭鉱である。
人民の敵として即刻処刑かと危ぶまれたが……


15: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)20:59:00 ID:3SJRnakA2

no title


16: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)20:59:27 ID:3SJRnakA2

no title


深沢の人徳がそうさせたのか、裁判では中国人労働者の
「人民に対する罪なし」の証言が決め手となり、

無罪判決を受けた深沢は中国軍によって命からがら
長崎の佐世保に帰国する


17: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)20:59:58 ID:3SJRnakA2

no title


こうして、深沢は長い海外放浪生活を終え、
1946年(昭和21年)に沢内村へ帰村、

しばらく沢内青年会の講師として銃後の村民に
平和や民主主義の尊さを説く活動に従事する


18: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:00:44 ID:3SJRnakA2

no title

1948年(昭和23年)、昔に世話になった上司の求めに応じて
再び村を出た深沢は、
佐世保船舶工業に就職、総務部長となる

だがやがて朝鮮戦争特需が終わり、徐々に景気が悪化してくると、
工員たちのリストラという重責が深沢の肩にのしかかるようになる


19: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:01:35 ID:3SJRnakA2

no title

長い海外生活により、平和の尊さを誰よりも知る深沢には、
朝鮮戦争休戦によってもたらされた平和によって
工員たちをリストラしなければならない矛盾が許せなかった。

徐々に会社や上司との関係も悪化してゆき、
佐世保での生活は破綻する

入社から五年後、深沢は後先考えず佐世保船舶工業を退社し、
失意の帰村を果たす


20: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:02:12 ID:3SJRnakA2

no title


そんな深沢に追い打ちを掛けるかのように、
今まで深沢のアジア遍歴を無言で見守っていた父・晟訓が死亡する

老いた母一人を残してはおけないと考えた深沢は、
遂に生まれ故郷である沢内に骨を埋める決意をした


22: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:04:23 ID:3SJRnakA2

no title


ここで深沢生誕の地である沢内村という村について簡単な説明をしておこう

沢内村はかつて「日本のチベット」と呼ばれた
岩手県の中でもぶっちぎりで貧しく、
日本の最貧地域のひとつとして数えられる寒村であった

沢内村は、岩手・秋田県境を隔てる峻厳な奥羽山脈の只中という
地理的条件に加え、
毎年冬になると3メートルをゆうに超える降雪がある、
日本屈指の豪雪地帯である


24: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:08:11 ID:3SJRnakA2

no title

その積雪量故、当時の沢内村は、冬季は最寄りの市街地である
盛岡市に通ずる約二十キロメートルの一本道さえ
完全に通行止めになるという、まるで罰ゲームのような土地であった

わずかな平地にある猫の額ほどの耕作地は、
夏に頻繁に冷湿な東風(山背)に見舞われ、実りは少なかった

人が生きるにはあまりに恵まれない地理的条件の過酷さにより、
江戸より古くには『天牢雪獄』と呼ばれ、
南部藩の罪人島流しの地ともなっていた超ド貧乏寒村であった


25: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:12:23 ID:3SJRnakA2

no title

「宝暦の大飢饉」が起きた際には、、
村全体で南部藩に納める年貢米が全く用意できず、

年貢米の代わりに16歳の美人村娘・およねを
南部藩に献上したという、悲しい歴史が存在する

沢内甚句には
「沢内三千石 お米(およね)のでどこ 
 升ではからねぇで コリャ 箕(身)ではかる」
という歌があるが、

これは一見すると村の豊かさを歌っているように見えて、
実は村の人身御供となったおよねの不憫さを哀れんだ、
村人の悲しき慟哭の歌なのである


26: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:13:54 ID:3SJRnakA2

また、こんな話も伝わっている
風邪をこじらせた子供を深雪の中、そりに乗せて最寄りの病院へ運ぶ途中、
子供がやけに大人びた事を言う……



no title


27: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:14:12 ID:3SJRnakA2

no title


28: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:14:23 ID:3SJRnakA2

しかし、やっとのことで病院にたどり着くと……


no title



「もう死んでるよアンタの娘! どうしてこんなになるまで放っておいたんだ!」


30: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:15:04 ID:3SJRnakA2

no title

3メートル以上の積雪がある道無き道を歩き通して
市街地まで患者を運ぶなんて、不可能な話なのであった

たとえ根性で病院に辿りつけたとしても、
病院についた時には既に患者が死んでいたなんてことは
ザラにあることだった


31: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:15:43 ID:3SJRnakA2

no title ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
また、東北には「竈返し」という独特の言葉がある。
「竈返し」とはつまり「破産する」ということである

煮炊きのための竈をひっくり返せば、竈の火は消えてしまう。
つまりその家計は破綻してしまうということである

さらに、東北で「カマドキャシ(竈返し)」といえば、
広義には病人が医者に掛かることを意味してもいた


32: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:16:01 ID:3SJRnakA2

no title

一度でも医者にかかれば、高額な医療費により、
その家は竈を返してしまう、
というのが当時の沢内村内の常識であった

現金収入がまるでない沢内村村民にとって、
患者側五割負担だった当時の医療費は
とても払えたものではなかった

病気を医学的に治療しようとする行為そのものが、
結果的に「竈返し」的行為として捉えられていたのである

そのため、長患いとなった高齢者は家族に迷惑をかけないよう、
自ら命を断つのが当り前のことであった


33: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:16:47 ID:3SJRnakA2

no title

そんなわけで、たいていの沢内村民が
「医者に掛かるとき」とは、つまり死亡した時だけだった

埋葬するために必要な医者に死亡診断書を書いてもらうためである。
本末転倒ではあるが、当時はそれが普通だったのだ

ちなみに1956年当時の乳児死亡率は、東京都が2.6%、
全国ワーストの岩手県全体が6.6%のとき、
沢内村の乳児死亡率はそれよりも悪い県下ワーストの7%であった。
つまり沢内村は日本一乳児が死ぬ村だったのである

ちなみに、「世界最悪の失敗国家」と呼ばれるソマリアの
現在の乳児死亡率でさえ約6%ぐらいであるというから凄まじい


34: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:18:38 ID:3SJRnakA2

no title

こんな土地であるので、近郷の湯田村の開業医の元には
毎日のように死んだ我が子の死亡診断書を求める親が殺到した

死んだ我が子を背に抱いた親が涙ながらに医者に行くと
「どうせ死んでるんでしょ? なら朝まで待ってよ」
と医師に冷たくあしらわれ、
夜通し開業医の玄関先に並んでいた所、
朝になって気がついたら自分の後ろに死んだ子を
背負った親の行列ができていた……

というような、人命の重さの何たるかを考えさせられるような
ひどい話がいくつも残っている


35: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:20:19 ID:3SJRnakA2

no title

帰農してからしばらくは百姓をしていた深沢だったが、
後に黒沢尻高校の臨時英語教師として教鞭を執ることになった

時たま深沢は生徒たちに教科書を伏せさせ、
「沢内村は今のままでいいと思うか?」
と語りかけることがしばしあった

終戦とともに日本にもたらされた自由や平等の空気が、
深沢の知識や博愛精神を強く刺激していたのである


36: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:21:29 ID:3SJRnakA2

no title

こうした活動が評判となり、
深沢は村役場の要請を受けて教育長に就任した

しかし、戦後9年も経っているのに、
まだ村には労働組合どころか婦人会すらなかった

そんな戦後日本が歩むべき道とかけ離れている村の現状を憂えた深沢は、
ある活動を始める


37: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:21:51 ID:3SJRnakA2

no title


深沢は教育長に就任してからというもの、
村の各家庭を足しげく訪問し、婦人や青年たちと交流を持った

こうした地道な活動により、村には婦人会や農協の青年部が発足した。
沢内村の現状を変えるためには、
まず村民の組織化・団結が必要不可欠と考えたのであろう


38: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:22:11 ID:3SJRnakA2

そんなとき、深沢の下へひとりの男がやってきた……


no title


39: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:22:29 ID:3SJRnakA2

no title

佐々木吉男
「今、沢内村の特産である天然ナメコですが、
 市場に流通する時には『山形県産』として出荷されています。
 これはブランドの形成ができていないからですが、
 逆に考えれば沢内ナメコブランドが確立できさえすれば、
 ナメコは我が村の副収入に、それも貴重な現金収入となるわけです。
 是が非でも『沢内ナメコ』ブランドを形成するのです」


40: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:22:48 ID:3SJRnakA2

no title

佐々木吉男
「しかしそこまで大規模なナメコの栽培となると、
 販路拡大はもちろん、林業組合との調整も必要になってきます。

 そこで今度、沢内村に岩手県ナメコ協会の沢内支部を立ちあげますので、
 教育長にはその支部長になっていただきたい。
 保守的な沢内の農民を説得できるのはあなたしかいません、
 どうかお願いです!」


41: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:24:20 ID:3SJRnakA2

no title

佐々木の熱い説得に、深沢は大きく心を動かされ、
ナメコ協会の支部長となることを二つ返事でOKした

この佐々木吉男という男、一見単なる田舎者に見えながら、
実はずば抜けてマーケティングの才がある男であったのである


42: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:25:14 ID:3SJRnakA2

no title

当時、農協の専務をしていた佐々木吉男の要請で
ナメコ組合の組合長となった深沢は、
沢内産のナメコを『沢内ナメコ』という缶詰にして売り出し、
村の当初予算に匹敵する程の金を稼ぎ出して「ナメコ教育長」と呼ばれた

このときに出会った佐々木吉男は、
後に村助役として20年に渡って深沢を支え続けることとなる

また「広報のない民主主義はあり得ない」という信念から、
沢内村広報誌を創刊したのもこの時期である

もちろん、現在もこの『沢内ナメコ』は村の重要な特産品のひとつである


43: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:26:59 ID:3SJRnakA2

no title


昭和31年(1956年)深沢は沢内村助役に就任。
7ヶ月という短期間だったが村長を補佐して働いた

そして翌昭和32年(1957年)、「豊かで健康的で明るい村づくり」
をスローガンに掲げた深沢は村長選挙に立候補、
無競争で当選を果たし、ついに沢内村村長となった。

そして前述のとおり、助役には佐々木吉男を迎えた


44: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:27:09 ID:3SJRnakA2

no title


村長に就任した深沢がまず着手したのは、
冬に降り積もる豪雪を除雪し、近隣市町村への交通を確保することであった

こうして沢内村に『冬季交通確保期成同盟会』が発足し、
除雪への機運が高まった


45: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:27:34 ID:3SJRnakA2

no title

しかし、「除雪する」と言った所で、それは並大抵のことではなかった。
ブルドーザーなんて重機は当時はまだまだ貴重品、

岩手県内にわずか二台しか存在しておらず、
しかもそれを一冬借りるのにかかる費用は
当時の沢内村の年予算の8分の1にもなった

このことから「村長はホラ吹きだ」という批判も噴出したのである


46: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:28:00 ID:3SJRnakA2

no title


47: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:29:49 ID:3SJRnakA2

no title


事情通の村民・暁美ほむら(仮)の提案により、
一冬の間、隣町の秋田県横手市の業者から
6トンブルドーザーを借り受けることが決まった

最先端の文明の利器たるブルは厚く積もった雪を押しのけ、
見る間に道を切り開いていった

今まで重機など見たことのなかった村民たちは
「これはすごい」「長生きはするものだ」と口々に驚いた


48: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:30:02 ID:3SJRnakA2

no title


49: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:30:32 ID:3SJRnakA2

no title


だがしかし、このブルドーザーは中古品である上に、
沢内の豪雪を払いのけるにはあまりにも馬力が足りなさすぎたため、
まともに動かなかった

最寄りの開業医がいる湯本までのバス運行は
たちまち途切れがちになった――

この大失敗に村民の落胆は徐々に怒りへと変わり、
果敢にも豪雪に挑んだ村長には悪罵が投げつけられた

深沢の盟友である仏僧・太田祖電教育長が
村民を何とかなだめたものの、
失意の深沢は風邪を引いて寝込んでしまう


50: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:30:56 ID:3SJRnakA2

次の一手が決まらぬまま、
深沢の理解者である助役の佐々木吉男は大雪の中、
疲れを癒やしに地元の温泉へ浸かりに行った。すると……



no title


51: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:32:01 ID:3SJRnakA2

no title

深沢の窮状を見かねた天からの救いなのか、
佐々木が偶然にも温泉で出会った男は、
まだまだ駆け出しだった頃の世界的重機メーカー・小松製作所の
営業をしていた杉沢という男であった

佐々木が村の現状を話すと、情熱家である杉沢は
深沢の情熱にひどく感動し、

またそれが思うに任せない状況であることに
深く同情を示した上で、
アングルドーザーD50型という、
当時としては日本最新鋭の10トンブルドーザーの購入を
熱心に進めた

当然、佐々木助役は「喉から手が出るほど欲しい」と思ったが、
予算的な兼ね合いにより即決はできない。そこで――。


52: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:32:42 ID:3SJRnakA2

no title

佐々木吉男は杉沢に出会った大雪の夜、
温泉からその足で深沢宅へ向かった。

温泉から深沢宅までの12キロの山道を、
佐々木はわずかに蝋燭の灯りだけを頼りに歩き通し、
自宅で寝ていた深沢を叩き起こして杉沢の提案を話した


53: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:34:10 ID:3SJRnakA2

no title


深夜に突然訪ねてきた、ほとんど遭難者同然の佐々木を見て
深沢も驚いたが、

佐々木から話を聞くや、深沢はその場ですぐに
特別会計を作ってのブルドーザー購入を決めてしまった


54: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:34:45 ID:3SJRnakA2

no title


こうして提供された最新式のブルドーザーは
村民の憎悪の的であった豪雪を逞しく払い除け、
沢内村村民のための命の道を切り拓いた

こうして沢内村村民は冬期間でも安易に病院や学校に
通うことができるようになり、「やればできる」と村民を熱狂させた

やがて県庁所在地である盛岡までの定期バス便も発足し、
夏季はブルドーザーを農地整備に使うことで村の税収も潤った


55: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:36:19 ID:3SJRnakA2

豪雪を払いのけた深沢が次に着手したのは、無医村である沢内村に医者を呼ぶことだった

no title


56: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:36:49 ID:3SJRnakA2

no title

当時の沢内村には開業医がおらず、
村立沢内病院には近隣の病院から出張してきてもらっていたが、

この医師には問題がある者が多く、
中にはヨボヨボに耄碌した医者、
渓流釣りにうつつを抜かしてまともに病院にいつかない医者もいた

当時の医者にとって地方の僻地勤務は「トランク」と呼ばれており、
完全に出張扱い、キャリア養成のための腰掛けに過ぎなかった

このため医者は長くても三ヶ月程度で村を出て行ってしまう。
村民と医師との間に確固たる信頼関係が築かれることはなかった


57: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:37:13 ID:3SJRnakA2

そんな現状に深沢がやきもきしていた時、
村の保健婦から衝撃的なタレコミが齎される……




no title

 <新しく沢内村病院に来たT医師だけど、あの人は薬物中毒者だよ! 
   今日はっきりとわかったにょろ!
   実際に麻薬のアンプルも見たことあるし、
   クスリが切れるとめがっさ手が震えてて視線も虚ろにょろ
    今日遂に医療ミスで患者が死んだにょろ! あの人は異常にょろ! 
   告発するにょろ!


58: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:37:55 ID:3SJRnakA2

no title


ある日、岩手医科大学から派遣されてきた医師であるT医師が、
手術中に薬物の断症状を起こし、
患者を死なせるという悪夢的な事件が起きた

このことに激怒した深沢は、その足で
T医師の派遣元である岩手医大学に乗り込み、
突然の来訪に騒然とする大学の重役たちの前で怒鳴り散らした


59: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:38:23 ID:3SJRnakA2

no title

<あんな医者をよこすなんて、岩手医大の教授たちは人間じゃないお! 鬼だお!
 無医村だと思ってウチを馬鹿にしやがって! 遺族に対してどう責任取んのかお!
 もう金輪際岩手医大の医者は沢内村の敷居をまたがせないお! 
 お前ら全員死んじまえお!


60: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:38:53 ID:3SJRnakA2

no title

突如乗り込んできた深沢のあまりの剣幕と、
彼の口によって語られた事件の顛末に、
居並ぶ岩手医大の重役たちは一言も発することが出来なかったという

岩手医大の上層部メンバーがまごついている間に、
深沢は岩手医大に絶縁する旨を叩きつけて退室、
以後は岩手医大からの一切の支援を断ってしまった

無論のこと、医療ミスで患者を死なせたT医師は
県内外から強烈なバッシングに遭い、医師の地位を追われた


61: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:39:44 ID:3SJRnakA2

しかし、曲がりなりにも後援者であった岩手医大との関係が切れれば、
沢内に医者がいなくなるのも道理だった
深沢はこの状況を打破すべく、
母校である福島大学の医学部学部長の中村隆に医師の派遣を依頼する

no title

<中村隆「無理でェす絶対無理ですからァ!
       ド三下寒村に医師の派遣とか無理ですからァ!」


最初、この請願はにべもなく断られた。
しかし、深沢最大の武器は粘り強さである

深沢は助役の佐々木吉男を伴って中村学長の元へ日参し、
医師派遣の請願を続けた

福島医大の真ん前にある旅館に泊まり込み、
述べ九ヶ月間も日参していたというから恐れ入る


62: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:40:02 ID:3SJRnakA2


そして月日は経ち……


 no title


中村隆「そこまで言うなら優秀な医師を派遣してやンねェこともねェ……」


63: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:41:02 ID:3SJRnakA2

no title

日参すること実に9ヶ月、ついに中村が折れ、
中村は沢内村への優秀な医師の派遣を約束する

そして1960年(昭和35)年3月、
村立沢内病院は院長に加藤邦夫医師、
副院長に増田進医師を迎えることとなった

この加藤邦夫医師は「中村研究室一の鬼才」と呼ばれたほど、
若いのに腕が立つ天才医師であった

先述したように、当時、医師が山間僻地に赴任することは「トランク」と呼ばれ、
単なる腰掛けキャリア養成期間に等しかった

しかし加藤医師は、以後定年まで沢内村民の医療と健康に
一生を捧げたのである


64: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:41:39 ID:3SJRnakA2

no title

当時、沢内の小学生の38%、大人の44%がトラコーマ(慢性角結膜炎)
に罹患しており、目が腐ったように赤く爛れていた

さらに村の保健婦が調査した結果、乳児のほとんどが
栄養失調やくる病を患っていた
くる病とは骨が軟化し、歩行が不安定になる病気である

これは日光浴の不足により、体内のビタミンDが合成されなくなることにより
罹患する病気であった


65: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:42:08 ID:3SJRnakA2

no title

日中の農作業が過酷を極めた沢内村では、
乳児は藁で編んだ子守籠である嬰児籠に終日入れっぱなしで
放っておくしかなかった

ただでさえ日照の少ない沢内村で、
屋内で日の当たらないまま育てられた子どもたちが
くる病を罹患するのも当然のことであった


66: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:43:21 ID:3SJRnakA2

当初は保健婦などが献身的に活動し、母親たちに赤ちゃんの保護を呼びかけたものの……

no title
当時の沢内では家庭内における嫁の発言権はないに等しく、
子供の教育方針はもっぱら姑たちが決めていた

家庭内が保守的なため、嫁にいくら医学的知識を啓蒙したところで、
頭の硬い姑たちがそれを許さなかったのである


67: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:43:47 ID:3SJRnakA2

no title


深沢は頭を悩ませた。

くる病の原因となる日照の確保だけを啓蒙しても、
根本的には姑たちに意識の改善を促すことが出来なければ、
堂々巡りに終始する可能性があったのである


68: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:44:03 ID:3SJRnakA2

そんなとき、沢内村厚生課長の高橋清吉があるアイディアを発案する……


 no title


69: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:44:16 ID:3SJRnakA2

no title


これが『おばちゃん努力賞』の創設であった。
孫の面倒を積極的に見た姑に対し、
村長が賞状一枚と高級座布団を進呈するというものだった


70: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:45:59 ID:3SJRnakA2

no title

この賞の創設は姑間のプライドに火をつけ、
姑たちは進んで嫁や孫の面倒を見るようになった

中には嫁の代わりに孫を連れて病院にかかる姑、
ミルクの飲ませ方までいちいち気にする姑が出るようになり、

「風邪は寝ていれば治る」というような
貧しい知識しか持ち合わせていなかった村民の
健康に対する意識は大きく改善された


71: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:46:29 ID:3SJRnakA2

実はこの高橋清吉という男、
沢内村役場きっての働き者として
かねてより一定の評価はあった男なのであったが、

任されていたのは国保事業係であったことから、
長く冷や飯食らいの身に甘んじていた男だった

なにしろ、国民保険税なんて払ってる奴のほうがマイノリティで、
ほとんどは滞納してるのが普通な村なのである


no title


72: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:47:06 ID:3SJRnakA2

no title


もともと国民保険料どころか、明日の食費に事欠いているような
ド貧乏寒村である

一生医者にかからない人間なら払い損になる保険税なんて
払う奴は沢内村には皆無であった
当時の沢内村の保険料滞納者は実に村民の三分の二にもなっていた

当然、国保税が未払いなのが当たり前の村など、
医者も診療を嫌がるに決まっていた

患者から嫌われ、医者からも嫌われ、村に医者はおろか、
ひとりの保健婦だっていない時期もあったという


73: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:47:51 ID:3SJRnakA2

それでも清吉が国保係を降りなかったのには理由があった



no title


清吉「村長、俺の息子のひとりは子供の頃にひどい風邪を引いて、
    脳に障害が残ってしまったんだ。
   5つになったが、今も笑いも泣きもしない。
   あのとき村の医療制度がもっとしっかりしていたら、
   息子は無事に育っていただろう。
   俺はそのことが悔しくて、今も国保係から降りることが出来ないんだ……」


74: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:48:19 ID:3SJRnakA2

no title


昼行灯扱いだった高橋が、なぜこうまでして
村の医療制度の改善に奔走するのか、深沢はよく理解していた

深沢という最強の理解者を得て、高橋は次々と
村の医療制度改革のためのアイディアを提案していった


75: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:48:37 ID:3SJRnakA2

だがしかし……

        
no title

無医村状態が解消され、姑たちの誤った意識も
改善することが出来たにもかかわらず、
沢内病院にやってくる患者は予想より増えることはなかったのである


76: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:49:53 ID:3SJRnakA2

no title

その理由はやはり「竈返し」、時代が進み、
村の経済もかなり潤ってきてはいたものの、
沢内村ではやはり医者に掛かること自体に抵抗感が根強く残っていたのだ


77: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:50:44 ID:3SJRnakA2

no title

いくら周りを固めても、患者が増えなければ村民の健康は守れない……
その事実に直面した深沢は、常々暖めていたある計画をついに実行に移す


78: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:51:22 ID:3SJRnakA2

no title


1960年(昭和35年)12月、深沢は65歳以上の高齢者と
一歳未満の乳児の医療費無料化を宣言する

当時、日本の医療費は患者側5割負担が国の法律で
義務付けられていた。

その中で、「自治体が個人を助ける」という発想のもとに生まれた
医療費の十割負担は、まさに画期的、というより、
ほとんど社会保障政策の精神の天地がひっくり返るかの如き、
革命的な出来事であった


79: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:56:15 ID:3SJRnakA2

しかし、これは岩手県庁から国民健康保険法違反を理由に待ったがかかる。
医師会から訴えられれば村に勝機はない、狂気の賭博であった
佐々木吉男や高橋清吉らによる交渉も失敗した。だがしかし――


no title


深沢は憲法が保障する「国民の健康で文化的な生活」を根拠に
少しも譲らないどころか、
あろうことか「国は後からついてくる」とまで言い切った

自分の命を自分で守ることが社会保障の本願ならば、
自分の村は自分たちで守るのが道理だと深沢は宣言したのだった

さらに後年には無料の対象となる高齢者の年齢を
60歳まで引き下げるなど、深沢の断行姿勢は揺るがなかった


80: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)21:58:55 ID:3SJRnakA2

no title



こうした諸々の努力を重ねた結果、昭和37年(1962年)1月1日、
沢内村はついに日本の地方自治体として
初めて年間乳児死亡率0%という快挙を達成したのである

このような偉業が全国に先駆けて、
沢内村のような極貧寒村が達成したことは全国の注目を集め、

沢内村は「自分たちの命を守った村」として称賛され、
「沢内詣で」と呼ばれる全国からの視察が相次いだ

そしてその先頭に立ちつづけた深沢は、
『生命村長(生命尊重)』、『赤ちゃん村長』と呼ばれ、
称賛されるようになったのである

長年の刻苦と努力の果てに、沢内村は
「日本で一番乳幼児が死ぬ村」から
「日本で一番乳幼児が死なない村」へと進化したのである


81: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)22:00:12 ID:3SJRnakA2

no title


しかしその快挙達成からすぐ、深沢は身体に不調を来すようになり、
医師の診察の結果食道がんが発見された

実は深沢はあれだけ医療の充実を説いていながら、
大の医者嫌い、病院嫌いであったと言われている

加えて、深沢はかなりのヘビースモーカーであり、
咽頭の不調をタバコの吸い過ぎによるものと
勘違いしてたことも仇となった

乳児死亡率0%の達成から二年後、
秋田県横手市の平鹿総合病院で手術を受け、
一時は公務にも復帰したものの、
すぐまた体調を崩し、
同年冬に東北がん治療のメッカである
福島県立医科大学附属病院に再入院した


82: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)22:02:19 ID:3SJRnakA2

no title

だが治療の甲斐なく、深沢は翌昭和40年(1965年)1月28日、
遂に肺炎のため死去した
享年59。
村長在職のままの、あまりにも早すぎる死であった

生前、病床の深沢は母に「念仏を唱えればいいですよ」と言われて絶句し、
ただただ「たまげたなぁ……」と繰り返したという

がんは本人に告知されなかったが、
おそらくはその時、自分の末期を悟ったのだろうと思われる

生前、深沢は
「もう一期(村長を)やらねばなるまいよ。
 その後なら誰に任せても大丈夫だ」
と常々語っていたという

十分すぎる功績を残していながら、本人的には志半ばの、
無念の死であったであろう


83: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)22:05:10 ID:3SJRnakA2

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深沢の遺体が車に乗せられて沢内村に帰ったときの
沢内村の天候は荒れに荒れ、前が見えぬほどの猛吹雪であった

だがしかし、悪天候を圧して2000人以上の人が沿道に列をなし、
深沢の無言の帰宅を出迎えたという
これは深沢がいかに村民に慕われていたかということを
示す逸話と言える

また、深沢の遺体を乗せた霊柩車は村の途中で
寄りすがってくる村人たちのために
何度も停車せざるを得なかった

中には孫を連れ「お前の命を守ってくれた人だ」
と涙ながらに言い聞かせ、
静かに手を合わせる老婆の姿もあったという

葬儀は村葬として執り行われ、
参列した多くの人が深沢の功績を讃え、
その急逝を悼んだ


84: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)22:06:02 ID:3SJRnakA2

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翌昭和41年(1966年)、沢内病院の庭に氏の功績を称え、
深沢の胸像が建立された

胸像除幕の日は、奇しくも村葬が行われた日と同じ、
吹き荒ぶ猛吹雪の日であったという


no title


今も深沢の胸像は、沢内村村民が打ちたてた不滅の業績を讃え、
沢内村の風雪に耐えながら建っている










やる夫で学ぶ『赤ちゃん村長』 ~深沢晟雄物語~   おしまい


86: おーぷん@名無しさん 2014/04/29(火)23:08:15 ID:ITXyPqKSh

立派な村長さんもいたもんだなっぺ





http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1398772231/
村長ありき―沢内村 深沢晟雄の生涯
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